もうちょっとだけ物語に踏み込んだ感想

小林賢太郎プロデュース公演「KKP」はその名の通り、賢太郎さんが脚本・演出・出演の他、プロデュースも行う演劇公演。 7作目の「ロールシャッハ」以降は「小林賢太郎 演劇作品」と表記されている。

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出会いは必然だと思う。少なくともこの物語においては。
「待ちたい何か」の存在は、それが人であれ、現象であれ、生き続けるための原動力になり得る。
マジルが森に通って来るようになったからこそ、ヨイチは「誰かを待つことができる幸せ」を知り、束の間でも、その自覚がなくても、それは満たされたひとときだっただろう。 これはヨイチ目線。

では、マジルはどうだったのだろう。

幼い8歳の少年が、なぜああまでに森の世捨て人に惹かれたのか。
放課後になると毎日、同級生とではなく、森でヨイチと過ごす時間の方を必要としたのか。

マジルはマジルで、彼的にはいつも「ひとり余っていた」のではないか。

ヨイチが言うように、はたから見ればマジルの「ひとり余った」はいい思い出だったかもしれない。 けれど優秀であるが故、暗黙の了解のように常に他の同級生よりも「少しだけ大人でいること」を求められ続け、その期待に応えようとひとり奮闘する日々は、実はとても孤独だったのではないか。 本来の自分「8歳の少年マジル」でいられたのは、ヨイチと一緒にいる時だけだったのではないか。

その立場に不満があったとか、周囲の期待という重圧から逃れたかったとかそういうことでもない。ただ本能的に自分が自分で居られる場所を探し続けていたのだろう。 無意識のうちに探し求めていたそれは、ある日フラッと足を踏み入れた森の中で見つかる。それがヨイチとの出会い。
最初から運命を感じた訳ではない。 でもなぜかまたあの場所へ行きたいと感じた、マジルのその感性に導かれるように二人の運命の歯車が動き始める。先にシンパシーを感じたのはおそらくマジルの方だ。 但しそれは、正体のわからないとても漠然とした感情だっただろう。偶然の出会いは、マジルの2度目の訪問によって必然へと姿を変える。


ヨイチはヨイチで自分の心を守るためにマジルを拒絶し続ける。それでもストレートに懐に飛び込んで来るマジルが特別な存在になるまでに、そんなに時間はかからなかった。
これまで両親やクレソン先生以外に「ソレ」と知りながら無条件に自分を受け入れてくれる人はいなかったし、ヨイチ自身が思いを寄せ、あるいは? と期待したコヨミさんは彼と共に歩いてはくれなかった。ヨイチに唯一寄り添い続けてくれたグランダールボは3番目の父親で、いわば保護者的な存在。 よくよく考えてみると「親」という立場以外でヨイチを必要としてくれたのはマジルだけだ。過去に誰かからこんなにも必要とされたことなど一度もなかったのだから、 これはヨイチにとってもかなりのインパクトだったに違いない。

嬉しかったハズだ。でもそれと同じくらい怖かったハズだ。欲しくてたまらなかったものが今目の前にある。けれど、マジルはヨイチの正体を知らないからこそ 簡単に「ともだちになろう」なんて言えるのだ。真実を伝えて失うくらいなら最初から「ともだち」なんていらない。

「うるう」では、この「偶然のような必然」から始まった二人の距離が少しずつ縮んでいくプロセスが、たくさんの笑いを織り交ぜながらとても丁寧に描かれている。 ヨイチの気持ちの変化の見せ方の絶妙さ。「もう二度とここへは来るな」と追い返した直後の「また明日!」には本当に痺れた。


TAKEOFFパンフレットの再演に向けてのインタビュー記事に「何も足せない何も引けない台本にたどり着ければいいな」という 賢太郎さんの言葉があるのだけれど、2020年版の「うるう」もまさにそんな作品だと思う。 ものづくりの理想をそのまま形にして届けてくれる賢太郎さんって、とんでもなく凄い人だと思うし、やっぱりとてもカッコイイ!

だからこそ思う。2012年版・2016年版を知らないから余計に私は、ここに至るまでの経緯を知りたいと願ってしまう。 いつか初演・再演・再々演それぞれの脚本を出版してくれたらいいのに〜。



逃れようのない運命に翻弄されながらも、与えられた「生」を全うしようとする「孤独なうるう人」ヨイチの物語は、 彼が心を通わせる森の主であり、3番目の父親でもあるグランダールボとの会話からスタートする。

これにもいろいろな見方があるだろう。本当に会話していたのだとも、ヨイチがグランダールボと見立てた自分自身と会話しているのだとも。 いずれにしても独白だけではなく、部分的に「会話」という手法で物語が展開して行くのが心地いい。なぜなら錯覚できるから。 自分が森の一部、例えば木の一本でヨイチとグランダールボとの会話をその隣で聞いているような。

ヨイチの人生には一般論での「あたり前」や「普通」がことごとく用意されない。 ヨイチが常に感じ続けていた「いつもひとつ足りない・いつもひとり余る」孤独感。ひとりと孤独はパッと見同じに見えるけど、その中身は全くの別ものだ。 ひとりでも満ち足りている場合もあれば、どんなに周りに人がいたとしても孤独な場合だってある。
しかも、本当はひとりではいたくないヨイチの悲劇は、愛する人達に先立たれた後に「自分はひとりでいるしかない」と思い込んでしまったことだ。 それが本心ではないにもかかわらず、心を閉ざし、何もかもを諦めてしまっていたことだ。 そこへ「マジル」という変化が訪れる。


マジルと出会ってからのヨイチは、これまで体験できなかった「8歳の子供」の日常をもう一度最初からやり直したようにも見える。 それも二人が一緒にいられたとても短い期間で。
過去にクラスメイト達に馴染めなかった思い出も実は、「話合わないんだろうな」と心の中で思っていた ヨイチ自身が気づかずに醸し出していた空気、その心の壁を相手が敏感に察知していたせいだったのかもしれない。 それでも手毬唄のくだりのように、相手はヨイチに興味はあったのだ。 転校作戦を繰り返していたヨイチには、彼等との距離を縮める時間がほんのわずか足りなかっただけかもしれない。 そんな掛け違えたボタンを掛け直すような出会いが長い時を経て訪れた。

年齢も立場もバックボーンも、その一切が関係ない。ただお互いを思い合う間柄。
マジルはそれを「ともだち」と呼んだ。

そして「ただお互いを思い合う」からこそ訪れた別れ。

マジルを諭して背中を向けるシーンの「後ろを向く瞬間のヨイチの表情」が辛い。しかも、日によって表情が少しずつ違っていたことを思い出す。 ヨイチがその日その日のマジルに背を向けたんだなと改めて思う。抱き寄せられるシーンなんて、どの公演の時も、どうしたらいいかわからないくらい心がキューっとなった。 マジルを追い返し、木のこずえでその姿が見えなくなるのを確認した後、襲いくる喪失感。 そのまま「まちぼうけ」を歌うシーンは圧巻。森の奥へと姿を消すヨイチを見送りながら彼を抱きしめたくなった。今彼をひとりにはしたくなかったから。
その時わかったことがある。少なくとも森だけは彼に寄り添い、変わらず見守り続けていたのだと。


その後の時間の経過を日めくりで表現した見せ方には感動した。 長い長い時の中で、唯一の話し相手であるグランダールボが倒れ、ヨイチより先に逝ってしまったシーンなどは胸が締め付けられた。

アルブーストとはどんな風に出会ったんだろうとよく考える。ヨイチは森の奥深くへと拠点を変えた後も、 おそらくグランダールボの元へ通っていたのだろう。でも、その巨木は倒れて呼びかけても返事をしなくなってしまった。 涙に暮れるヨイチの耳に、ある日ふと聞こえた声。その主は倒れたグランダールボのすぐ脇から伸びていた。 とても小さなその若木はグランダールボの生まれ変わりかもしれない。彼の種子から芽生えたその子供なのかもしれない。 真相は何であれ、アルブーストの出現に救われたヨイチは、植木鉢をこしらえて今の住処へ連れ帰った。

「ロールシャッハ」の壷井さんのセリフに「生まれ変わりに興味はない、自分には誰かから生まれ変わったという自覚がない、次に何かに生まれ変わったとしてもそれはもう俺じゃない」 という主旨の言葉があって、とても共感した。誰かの生まれ変わりとしての人生ではなく「自分」を生きる。 本当はグランダールボの生まれ変わりのアルブーストを、賢太郎さんはあえて「新しい生命」として登場させて、ヨイチとまた最初から新しい関係を築かせたかったのかなとも思う。


物語に潜む技の数々についても残しておきたい。
広島で初めて観た日は、マジルから「手引き(まちぼうけの楽譜の写し)」を手渡されるシーンで、本当にびっくりした。 えっ?えっ?今どっから?って。ああ、賢太郎さんっぽい。「今まさに受け取ったように見える」からこそ説得力が増す場面。 そんな技術的な細かい部分も丁寧に作られているのがとても素敵。

細かいと言えば、秘密の畑へと向かうシーンも大好きだ。ヨイチが振り返りマジルと手をつなぐ時、 その小さな手を握ってすぐに「更にしっかりと握り直す」そこがたまらない。
あの時フクロウのヘルメットを被ったのは、ヨイチであり森のオバケ「うるう」であるという意味の他に、 マジルからの「まちぼうけ」の贈り物にジーンときて思わず涙が滲んでしまったのを、照れ臭さから隠したかったからだと思っている。

秘密の畑はヨイチのパーソナルな部分の象徴でもある。そこへ初めて人を招き入れるのだ。 ヨイチにとってマジルがどれほど大切な存在かがよく伝わるとても素敵で重要な場面だと思う。 そんな「素敵シーン」にさえも、容赦なく笑いの要素をぶち込んでくる賢太郎さん・・・好き。

そして何より、そこに「マジルを存在させる」賢太郎さんの技の素晴らしさ。ステージには確実にもうひとりいた。だって見えるんだもの。小さな彼が。

DVDでも確認できるけど、マジルのいるところにはちゃんとスポットが当たる演出も好き。


どの作品でもその時々で培ってきたありったけを、そのシーンに一番相応しい在り方で 惜しみなく投入して来た賢太郎さん。中でも「うるう」は「小林賢太郎の全てがここにある」そんな作品だと、観る度にこれ以上ないくらい満ち足りた気持ちになる。



終盤、48歳のヨイチと新しい父親:アルブーストのやりとりに、ほのぼのとした気持ちになった。 時が彼に穏やかな日常を取り戻させてくれたことに安堵もした。 ヨイチがマジルとの日々を思い出し凹んだところでマカ騒動を持ってくる構成がとても好きだ。 マカ騒動の直後、穴を掘るヨイチの耳にはチェロのチューニング音が届き、彼の心はなぜかざわつく。 そんなハズはないと思いながらも何故か瞬時にヨイチの中であの日のマジルの声と笑顔が蘇った。

「大人になったら僕のコンサートに招待するよ!」

弦の響が聞こえているうちに自分の存在を何とかして知らせたい。でもどうやって?
二人をつなぐ唯一の手がかりは・・・。

歌いながら森を進むヨイチの心に灯った希望の光。 本当はそこまで計算していたのかどうか。音に反応し、本能的に「まちぼうけ」を歌わずにはいられなかったようにも見える。

このチェロのカノンに合わせて、ヨイチが「まちぼうけ」を歌うシーンでは芝居そのものは勿論のこと、賢太郎さんの歌唱力にも圧倒された。とにかく素晴らしかった。
この作品を観るまでは数ある童謡の1曲でしかなかった「まちぼうけ」。まさかここまで、私にとって大切なモノになるなんて思ってもみなかった。 これって凄いことなんじゃないかな。


まさか、まさか・・・でもこの確信に近い予感めいた「何か」に突き動かされチェロの音を目指し森を行くヨイチ。 小さな彼と二人で過ごした時間が鮮やかに蘇り一気に押し寄せる様子は圧巻だった。

特にヨイチとマジルの40年を表現したシーンがたまらなく好きだ。頭上のカウンターと共に成長するマジルの姿がそこに見えた。 見どころだらけの「うるう」の中でも最高に好きなシーンだ。


ラストシーンではチェロの音が不意に消え、立ち止まったヨイチが奏者の姿を捉えたところで、彼は「まちぼうけのイントロ」を弾いてみせる。 二人だけにわかる方法で「僕はマジルだよ」とヨイチに伝えたのだ。この演出には鳥肌が立った。 そして誰もが感じたはずだ。マジルにとってヨイチは、40年の時を経てもなおかけがえのない「ともだち」だった。別れたあの日も、それからもずっと。

幕が降りた後も、ヨイチの表情が驚きから喜びへ刻々と変わっていく様子が目に見えるようだった。二人は 互いに近づき、きつく抱きしめ合う。あんなに小さかったマジルはすっかり、ヨイチよりも大きく成長していた。 それがまたヨイチには嬉しかった。

ラストシーンこそ再会で幕が降りたけど、物語はそこでは終わらない。ヨイチの人生はこれからだ。 再会を果たしたマジルは、その後も度々森を訪れる。でもそれは、ヨイチにとってはほんの束の間。マジルの天命はヨイチほど長くない。 さらに40年ほど経った頃、二人は本当の「さよなら」を言うのだろう。「さよなら」だけど「さよなら」じゃない「さよなら」を。


その後のヨイチの暮らしに思いを馳せる。それこそ森の木の一本として、彼を見守り続けられたならどんなに幸せだろう。 マカになるっていうのもいいな。でもそう簡単にはつかまらないぜ!ふふっ。





2022/12/31更新

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